ここ1年ほどの間、研究室は急速に荒廃していった。ポストと研究予算を個人的な食い物にする職員、約1名。モラルの欠如と腐敗は政治の場に限らず、大学もその例に漏れなかった。
「しょうがないだろ」「昔の先生はみんなやっていたことなんだよ」「そんなの、受け止める側の気持ちの問題じゃないか」。このロクデナシに“事の善し悪し”と“人の心の痛み”を理解しろというのは無理な話だった。
多くは語るまい。志気は低下し、もはやこの研究室に健全な未来が期待できないことは明らかだった。Sweden!そんなある日、柳沢氏の目に止まったのは1枚の留学案内の張り紙だった。決断するのに言は待たなかった。決して“フリー○ックスの国”といった誤った認識からではなく、純粋に研究を楽しみ、心の平和を取り戻したかったのだろう。
内緒で他研究室の先生方に推薦書を書いていただいて応募した。トントン拍子に話は進み、最終選考の5人にまで残った。“これで帽子を被れば田舎の名士みたいですよねぇ(by 正木)”な格好をして、東京の大使館面接に出かけた柳沢。が、面接を終えてから2週間、待てど暮らせどなかなか返事が来ない。重苦しく気をもむ日々が続いた。“柳沢さん、最近元気ないですね(by ハマ子さん)”。
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2000年4月10日、無情にも郵送されてきた結果は <不合格> であった。